雨天決行

傘を持って外に出よう by山形みらい

工学研究 in NEXCO中日本コミュニケーション・プラザ川崎(そにょ1)

青葉「う〜む。これもグルメ特集かぁ…。」
山形「青葉さん、どうしたんですか?難しい顔しちゃって。」
青葉「今度(名古屋から)東京に行くのだけど、新東名高速道路で行こうと思っているんだよね。初めての新東名だから、200%ドライブを楽しみたくってね…。」
山形「なるほど。新東名も開通してもうすぐ2年。まだ訪れたことがない方も、是非楽しんで欲しいですよね。」
青葉「ところがね、どのガイドブックを見てもグルメやお土産の情報ばかりで、なんか物足りないんだよね。みらいちゃん、新東名が200%楽しくなるような情報をちょうだい!」
山形「了解!ハイウェイタレント山形みらいにまかせて!青葉さんなら300%楽しめるかも〜♪」


車から降りる2人。


山形「と言うわけでやってきましたにょろ〜!」
青葉「待ってよ〜みらいちゃん、ここはいったいなんの施設なの?NEXCO中日本のロゴが描かれている建物だけれど…。」



館長「ここはコミュニケーション・プラザ川崎と言いまして、NEXCO中日本がグループ一体となって進めている、高速道路の建設や管理、サービスエリアの運営などについて紹介するための施設です。
高速道路の歴史を振り返りながら、”みち”を「造る・守る・愉しむ」ための様々な取り組みや『みちの明日』に向けられた想いを大画面映像やジオラマなどで、わかりやすくご覧いただけますよ。」
山形「ひょっとして館長さんですか?」
館長「はい。今日は山形みらいさんと青葉さんが見えると伺っておりましたので、私がご案内させていただきますね。」
山形「え〜!館長さん自ら〜о(^-^)о」
山形&青葉「ありがとうございます。」
青葉「恐縮しちゃうなぁ。」
山形「では、高速道路について沢山質問しちゃいますね。」


館長「ささ、どうぞお入り下さい。」
案内嬢「いらっしゃいませ。」
青葉「うわっ!これ、立体映像の女の人がしゃべってる!おもしろーい!」
山形「青葉さん、ほらほら落ち着いて(笑)。」



館長「このパネルの地図は、私どもNEXCO中日本が管轄している道路を一望できるようになっています。」
山形「東名高速道路、新東名高速道路、これは中部横断自動車道、こっちは圏央道東京外かく環状道路…館長さん、今後、新たに道を造る計画をされることってありますか?」
館長「このパネルに書いてないものについては、今のところはないですね(笑)。」


2人は高速道路の年表が記された巨大なボードの前に案内された。



館長「こちらの年表を使って高速道路の歴史を振り返ってみましょうか。」
山形&青葉「はい。お願いします。」


館長「日本初の高速道路は名神高速道路です。1956年にアメリカのラルフ・J・ワトキンス率いる調査団が、日本の最悪の道路事情に関するレポートを出したことから始まります。
『日本の道路は信じ難い程悪い。工業国にしてこれ程完全にその道路網を無視してきた国は日本の他にない。』と、日本国政府建設省に対して、高速道路調査報告書を提出したんですね。」
青葉「最初にできたサービスエリアはどこですか?」
館長「名神高速道路の大津サービスエリアです。1963年ですね。」
青葉「初めてのサービスエリアはどんな感じだったんですか?」
館長「サービスエリアの基本スタイルは、レストラン、ガソリンスタンド、トイレでした。最もガソリンスタンドは『自動車修理所』を備えていましたね。また、京都南ICの入り口手前には日本自動車連盟が運営する車両点検整備所もありました。」
山形「当時サービスエリアの標識には『スパナ』のマークが描かれていましたよね。最近はそのマークも見なくなってしまいましたね。」
館長「高速道路ができた当時は、とにかく故障車が多かったんですよ。当時の車が高速運転に対応していなかったので、すぐに悲鳴を上げてしまう。だから整備工場は必須でした。」
青葉「なるほどね…。車の性能が悪かったからなんですね。」
館長「ええ。当時は、新聞記者たちが『高速道路初の交通事故』をこぞってスクープしたがりまして…。ただ、故障車は多くても、なかなか事故は起きない。
当時は名神高速道路の茨木ICあたりの道路管理用の駐車場があったのですが、そこにマスコミが大型バスで乗り入れ詰めていましたが、あまりに事故が起きないので暇を持て余していたそうですよ。」



山形「ハイウェイラジオはいつ頃始まったんですか?」
館長「1983年です。今と違って、とても機械的な音声でしたよ。」
青葉「あ、みらいちゃん!これ見たことある?」
山形「『通行券』ね!知ってる、知ってる。パンチ式の大きな紙。」
青葉「僕が子供の頃は、父親が普通に通行券もらって、サンバイザーにはさんでいたなぁ〜懐かしい。」
山形「そのあと、ハイウェイカードができて、現在のETCに変わっていったのですね。」


館長「1969年には東名高速道路が開通しました。最後に開通したのは大井松田IC〜御殿場IC間でした。ここはとても高低差が激しく、開通に際しては難関でしたね。
開通後も、カーブの多い道をなめらかにする線形改良工事を行って、上り線と下り線に加えて、更に上り線を造ったんです。それで、下り線と旧上り線の両方ともを下り線として右ルートと左ルートという形にしました。
実は、下りの右ルートは昔、『上り線』だったという形跡が今でも残っているんですよ。」
青葉「え〜、おもしろい!みらいちゃん、今度、通るときにその形跡を探してみようよ。」
館長「下り線の右ルートにあった高速バスの停車所の位置を、道の反対側に移動したのですが、元の位置にはまだ形跡が残っていますよ。」


山形「以前、右ルートにPAがあったかと思うのですが、今、その土地はどうなっているのですか?」
館長「ああ、確かに鮎沢PAの右ルートが上り線だった頃にありましたね。そちらの旧鮎沢PAについては、下り線の右ルートが完成したことに伴って閉鎖してしまいました。
跡地はリサイクルプラントとして活用され、東名高速の樹木堆肥や新東名高速の造園工事で活用されています。」


山形「線形改良というと、中央自動車道上野原IC付近の高速道路跡地が気になっていまして、私も昨年の春に訪れた事があります。あの線形改良はかなり大掛かりなものでしたよね?カーブの向きが改良前と全く逆方向になっていますよね。」


館長「中央自動車道の上野原ICから大月JCT間の特に談合坂SA付近はカーブがとても多くて、事故の多発地点となっておりました。そのため、大月〜上野原間の6車線化に合わせてより安全にご利用いただけるよう線形を緩やかにした結果、これまで利用していた道路部分は当社の工事の資材置き場や、消防訓練等に活用しています。」
青葉「何気なく通っている道にも、いろいろな裏話があるものですね。」


このあと2人はミニシアタールームで、高速道路の歴史、新東名の建設、保全関連の映像を鑑賞しました。
(そにょ2へ続く)